早稲田大学の創設者であり、内閣総理大臣にもなった大隈重信が
『明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣に過ぎない』と語り。
戊辰戦争時に東征大総督府補佐として薩長軍を勝利に導いた大村益次郎が
『幕府軍が小栗候の献策を用いてれば、我々の首が無かった』と恐れ。
日露戦争中の日本海海戦で日本を勝利に導いた東郷平八郎は
『日本海海戦にて日本が勝利できたのは、小栗候が横須賀に造船所を設けたお陰である』と礼を述べた。
等々・・・
維新や明治政府における重役と呼べる者達が賞賛はたまた畏怖した人物がいた。その名を『小栗上野介忠順』。大げさかもしれない。確かに西郷隆盛や大久保利通、桂小五郎と言った維新三傑と呼ばれる者に比べると知名度は低いと言わざるを得ないが、これほどの賛辞を受けているのだから、かなりの傑物であったとうかがい知る事ができます。1860年代と言う髷を結い、腰に刀を差していた時代、既に使節としてアメリカに渡っていて世界レベルの見識を持っていた。そして最大の業績としては横須賀に造船所を建設や洋式軍隊の整備を幕府方の人間として対外政策を行った点にあると考えられます。知名度の低さはやはり幕府方の人間故か、ある種当時の政府にとって不都合な歴史として闇に葬り去られたのかもしれません。何故この話なのかと言いますと、小栗は権田村(現高崎市倉渕町権田)に領地をもっていた為、高崎市内には小栗に関連する遺跡が多く残っています。従いましては、高崎市にかなり縁のある方であると言えますので、高崎市に住むからにはこれ程の人物がいた事を是非知って貰いたいと考え、小栗に関係する遺跡をご紹介させて頂きます。
先ずは観音山小栗邸跡です。
戊辰戦争の際に小栗は15代将軍徳川慶喜の恭順に反対し、主戦論を唱えるも容れられず、それを理由に各要職を罷免され、自身の領地であった権田村に隠棲し、その際ここに住宅の建設を始め、宅地造成・用水路の整備・田畑の開発等を行ったとの事です。
小高い丘の上にあり、倉渕町一帯及び浅間隠山等を望む事ができます。小栗上野介もこの景色を見たのでしょうか?
そう考えると感慨深くなります。
遺構としては、平地として整備された宅地部分と建物の礎石、用水路があります。
立派な用水路が整備されています。遺構なんてとんでもない
現在進行形で使われており、今を生きるインフラとして活用され続けています。
宅地部分には建物の礎石があります。ただ、建物の完成はする事が無かったそうです。
戊辰戦争下の時世において小栗上野介へ謀反の意志ありとして薩長軍が配下を差し向け捕縛し、ろくな取り調べもせずに斬首した。享年42歳。これは権田村に隠棲してからわずか2ヶ月程の事だったとの事。近代化を目指している者のやる事かとあきれる限りです。小栗上野介の終焉の地となった烏川の水沼河原には、顕彰碑が設けられています。
刑に処される時、小栗上野介は「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と述べる等、自身の事よりも家族を心配し穏やかな様子だった。権田村での小栗上野介は、上述の建物の建築や用水路の整備、塾を開く等して静かに暮らしていたとの事。本当に謀反の意思があったかは疑問が残り、幕府の軍用金を小栗が持ち帰ったとするデマが流れていたそうで、それらに踊らされた薩長軍の対応には問題があったと言わざるを得ない。
個人的な思いとしては、当時幕府内の主戦論者であった榎本武揚や大鳥圭介と行動を共にすれば、異なった未来もあったのではないかと、どうしても惜しい気持ちが湧いてしまうのですが・・・
こんな、たらればを言っても仕方ないですね。
小栗上野介の墓所は東善寺にあります。
境内の写真掲載は控えますが、遺品や胸像等があり、小栗上野介の生涯を知る事ができる展示スペースも併設されていました。現在においても地元の人に親しまれ、悲劇的な最後に対しての無念さをうかがい知る事ができました。個人的に上毛かるたの札から外された理由についてや遺品があまり残されていない理由については大変興味深く感じ、それと同時に歴史教育に対しても懐疑的にならざる得ませんでした。昔と比べると公平な視点にたっているとは言え、それでも多少の偏りは見受けられます。やはり教科書に書いてある事が全てでは無いと言えるでしょう。歴史を読み解く際は公平な視点を持つことが重要そうです。
Author
J ishihara
TAKATANでは、
主に記事作成、htmlとかcssとかを担当。
趣味は山登り、お絵かき、画像編集。
いつか群馬県の山を擬人化したサイトを
作りたいのですが、時期は未定。
取りあえず、至仏山は私の嫁です。