日本百名山なるものがありますが、その城バージョン『日本百名城』も指定されているのはご存知でしょうか?
百ってかなり大きい数字なので、大半の城が指定されているのでは?とか、日本の人って三大○○とか百○○とかやたら指定したがるよね、等と言う声も聞こえてきますが、これらは一旦置いといて、高崎市内にその百名城の一つがあると言う事をここではご紹介させて頂きたい。
中心地にある『高崎城』?と想像する方も多いかもしれませんが違います。
箕郷町にある『箕輪城』です。
高崎城は江戸の初期に築造されていますが、箕輪城は戦国時代の中期に築造されており、時期的にはコチラの方が古いと言えるでしょう。長野氏が築城した平山城で、
特に武田信玄の侵攻を何度も受けながらこれを退き続けてきた歴史は名高いものがあり、当時の城主であった『 長野業正 』は名君とうたわれ、長野氏の全盛期を築きました。残念ながら業正の次の代で侵攻を許してしまいましたが業正の時代に『武田信玄』に負けなかった!ということを考えると、それだけ難航不落の名城だったことが伺えますね。
残念ながら現在は城郭などは残ってはいませんが、遺構として石垣・土塁・空堀があり当時の面影を残しております。
こちらは『郭馬出西虎口門』です。位置的には本丸の南側。平成14年度に行われた発掘調査によって、この付近に井伊氏時代の城門の柱の礎石が確認等がされた結果、門の建物構造を推定できた為、門の復元が進められ、平成28年に完成したそうです。全国的にみてもこれだけの名城ですので、多くの人に見てもらいたい。しかし悲しいかな、人は城と言う言葉を聞くと先ずは建物を想像してしまうので、石垣やら堀しかない所には集まらない・・・何てことが多いので、このような取り組みは大事。
三の丸
二の丸
本丸
こちらは堀の跡です。深さもあって立派ですね。箕輪城自体がそれなりに標高の高い場所にある事から、登った先に下らせて、また登らせるみたいな形に・・・自分が攻め込む側の人間だったら心が折れそうです。但し、現代的に捉え、箕輪城をウォーキングコースと考えると、アップダウンがあったり・・・
赤城山の景色が素晴らしかったり・・
高崎市街地の景色が素晴らしかったり・・・
等と、心と身体そして目でも楽しませてくれるコースとなっています。実際の所全てを周るのに結構な時間を要してしまいました。
最後に武田氏の侵攻を許した後の箕輪城ですが、武田の時代には、最近大河ドラマでも話題になった『真田昌幸』が城代を務めたり、徳川の時代のころには、こちらも最近大河ドラマで話題となった『井伊直正』に与えられ、高崎城に移動した折に廃城となりました。
※因みに幕末の大老井伊直弼の家臣として有名な『長野主膳』は長野氏の末裔だとか、それが本当だとしたら、箕輪城の全盛期を築いた長野業正の子孫と最後の城主井伊直正の子孫が共に幕末の世を駆け抜けたという構図になりますね、これが本当だとしたらなんともドラマチックですね。。