高崎南部、倉賀野町は中山道の宿場町として発展してきており、その面影を今に伝える雰囲気の良い街並みをしています。
今回はそんな倉賀野町のご紹介します。
コチラは『脇本陣跡』です。
脇本陣とは、大名が宿場町を訪れた際に利用する施設の事を『本陣』と呼ぶのですが、人数が多く本陣ではキャパシティが足りない場合や、他の大名宿場町でかち合った場合などで利用される施設の事を指します。
これは大山邸の所有者様から高崎市が寄付を受け復元し、倉賀野宿を散策される方へ向けて休憩所として開放している無料の休憩施設です。
脇本陣とは、大名が宿場町を訪れた際に利用する施設の事を『本陣』と呼ぶのですが、人数が多く本陣ではキャパシティが足りない場合や、他の大名宿場町でかち合った場合などで利用される施設の事指します。
これは大山邸の所有者様から高崎市が寄付を受け復元し、倉賀野宿を散策される方へ向けて休憩所として開放している無料の休憩施設です。
中には椅子や和室があり散策時に一休みができる他、倉賀野散策マップも置いてありますので、ここで次はどこへ向かうか考える事も出来ます。また、有償とはなりますが抹茶・コーヒーやお菓子を頂くこともできます。
歴史のある建物を壊さずに新たなる活用法を考え次代に繋げていく事は、当時の人々の息遣いを壊さないといった意味でも素晴らしい事と感じますね。
実際、埼玉県の川越市などは古い建物を壊さずに保存し続けた結果、古き良き日本の街並みを今へと繋げる事ができ、観光客で賑わうなど活気のあるものとなっています。
難しい事とは思いますが、破壊からの創造だけではなく、今を保持していく考えも必要なのでは無いかと感じます。
コチラは倉賀野城址の石碑です。南北朝期、烏川流域に倉賀野氏が築いた城で、戦国期には箕輪城の支城としての役割を果たしていました。その為、武田信玄の侵攻によって落城しますが、その時の城主である倉賀野尚行は謙信を頼り越後に逃れたとか、その後は直江兼続に仕え、子孫たちは米沢藩へ変遷した上杉家に仕えていったそうです。ということは、米沢の方に『倉賀野さん』という苗字の方がいらっしゃるんですかね?それは別の話として、その後の倉賀野城は当時の城主が北条方についた為、1890年の小田原の役の際、謙信の養子でもある景勝の大軍に攻め込まれ廃城となりました。遺構と呼べるものは殆ど無く、堀のあとのようなものが倉賀野町内に散見されますが詳細は不明です。
倉賀野城址南手の烏川です。これを自然の要塞としていたのでしょう。恐らくは攻めてくる武田軍を見ながらヤバい!!!なんて思っていたのでしょう。。。
Author
J ishihara
TAKATANでは、
主に記事作成、htmlとかcssとかを担当。
趣味は山登り、お絵かき、画像編集。
いつか群馬県の山を擬人化したサイトを
作りたいのですが、時期は未定。
取りあえず、至仏山は私の嫁です。